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第2回 「あたじけなさ」の行方
さて、柳田には前回のような、鮮やかなレトリック(表現の巧みな言葉)もあるが、どうしようもなく悩ましい文章もある。

以下の文章を一読して意味がとれるだろうか。

常にキヌの襟と袖とに花やかな帛を附けるのを、元来が襦袢だから身頃だけには倹約したためと見ると人は、言わば自分のあたじけなさをもって他を推すもので、もしこれが真に見得であったならば、ついぞ隠すことのない部分に、恥を露わしておこうはずもない。

これは、「雪国の春」の中にある「礼儀作法」というエッセイである。
東北の女性の衣服を「風俗野卑」と貶める紀行家に対する反論として書かれている。

文章も長くて読みづらいが、恥ずかしながら言葉がよくわからない。
「帛」は絹のこと。「身頃」とは、「身衣(みごろも)」の略で衣服の襟・袖などを除いた、体の前と後ろを覆う部分の総称だそうである。
だが、ここまでは、調べなくても何とかなる。

では、「自分のあたじけなさ」とは何だろうか。
最初は「味気ない」の古表現だと思ったが意味が通らない。
で調べてみると…
「あたじけない」とは、欲が深い、けちだ、しみったれ、という意味だった。
これは古語辞典ではなく通常の国語辞典に収録されている。

引用文を現代日本語に意訳すると、次のようになるだろうか。

「(東北の女性が)襟と袖に(のみ)華やかな絹を縫い込んで装うのを、「元々は彼女たちの衣服は襦袢なのだから、背腹の部分を飾らないのは、絹を倹約したため」と考える人は、自分がケチだから他人もそうだろうと思っているだけである。これが本当に見栄なのだとしたら、人目に触れる背腹の部分をそのままにしておくはずがない」

さすが柳田翁、敵も然る者である。
読みやすくなった現代仮名遣いの文庫版ですら簡単には読ませてくれぬ。

柳田が創るまで民俗学という学問はなかった。
というより、明治という時代は自分で言葉を創り出さなければ何もできない時代だった。
江戸から明治の転換期に多くの言葉が創られ、その遺産の上に我々が立っている。
柳田は一明治人として、その頭脳の中に蓄積された漢籍のデータベースを縦横無尽に使いこなして言葉を創り出し、膨大な著作を残した。
ワープロに頼る我々が太刀打ちできないのは当たり前なのだ。

悪筆の私にとって、ワープロほど有り難いものはなかった。
しかし、自分の頭の中に辞書を持っていた明治人に比べ、ワープロ使いの辞書はパソコンにある。
ワープロの辞書の限界が我々の思考の限界なのか…。
それどころか、ワープロなしでは以前のように漢字が書けなくなっているぞ…。

最近は努めて手書きで文章を残そうと試みている。
頭を使うとは、手を使った鍛錬でもあるのだ。
手を使い、足を使い、つたなくても確かな足跡を残していく。知の巨人でない我々は、そうやって歴史を自分自身に刻み込んで生きるしかないと思われる。
何かを書き残すという行為に、楽な方法などなかったのだ。

手間暇を「あたじけなく」しては何も生まれない。
パソコン全盛の時代の中で、ふと、そんなことを考えた。
※参考文献:「ちくま文庫版 柳田國男全集2巻」